みなかみ紀行

5月下旬に“とまりぎ”仲間4人で群馬県・六合村の尻焼(しりやき)温泉 関晴館(せきせいかん)に泊り、近くの川の大露天温泉を楽しんだ。翌朝、花敷(はなしき)温泉まで送っていただいた時、バス停のすぐ側に扇形の立派な石碑があった。

ひと夜寝て わかたち出づる 山蔭の 温泉の村に 雪降りにけり  牧水
大正十一年十月十九日 関晴館に泊る

“関晴館に泊る”の文字を目にしたとき、我々が泊まった宿かなと思ったが、ここは花敷温泉である、そうではないと思いつつ、バスで野反湖に向かった。
家に帰ってから調べてみると花敷温泉の関晴館は“関晴館本館”という名で2008年8月に閉館されていた。尻焼温泉の方は“関晴館別館”という名であったが2010年4月1日に屋号が“関晴館”に変更されていた。

若山牧水は大正11年(1922年)37才の時、10月14日に沼津の自宅を出て長野県、群馬県、栃木県を巡り11月5日に帰着した24日間の旅をした。この歌は花敷温泉に泊った時のものである。その旅が「みなかみ紀行」として出版されていることが分り、さっそく岩波文庫の「新編みなかみ紀行」を図書館で借りて読んだ。それによると10月19日、沢渡(さわたり)温泉に向かう途中、標識をみて気が変わり、花敷温泉に向かったのだった。宿の名前は出ていなかったが、歌は20日のところに書かれていた。

ひと夜寝て わが立ち出づる 山かげの いで湯の村に 雪降りにけり

バス停の石碑とは文字遣いが異なっているところがある。花敷温泉に泊った日、“白砂川の崖下の川の温泉に入った”とも書かれていた。今はその温泉には入れず、尻焼温泉の長笹沢川(ながざささわがわ)の露天風呂が人気になっているようだ。
「みなかみ紀行」は草津温泉、花敷温泉、沢渡温泉、四万温泉、法師温泉、老神温泉などをめぐり10月28日金精峠を越え湯元温泉で終わっている。

ちょっとしたきっかけで、若山牧水に触れることができた。文は見たまま、感じたままを素直にあらわし、特に風景描写が好ましい。樹木の名前や鳥の名が良く出てくる。各地に広がる創生社(歌の結社)仲間との歌会や訪ねてきた人々との交流(必ず酒を酌み交わす)を楽しみに旅をつづける。会ってそして別れを繰り返す。友と別れてからの文に寂しさが出ているように思える。紀行を読み進むうち、自分が旅をしているような気分にもなった。この本で編集されている紀行文の中で「みなかみ紀行」のほか、吾妻川(あがつまがわ)を馬車と徒歩で遡る「吾妻の渓より六里が原へ」と御殿場から長野にまわり十文字峠を越えて奥秩父の栃本(とちもと)へ抜ける「木枯紀行」は、“とまりぎ”仲間で旅行したことのある処が出てくるので興味をもって読んだ。

尻焼温泉

高崎線の事故により列車遅延にもかかわらず、大宮駅で所定の電車に4人が揃い、高崎駅で乗換えて吾妻(あがつま)線・長野原草津口駅に降りる。
バスで花敷(はなしき)温泉まで行き、迎えの車で尻焼(しりやき)温泉・関晴館(せきせいかん)に入る。川の底から湧く大露天温泉に入ることが目的だったので、さっそく行ってみることにした。脱いだものを入れておくための手提げ籠を宿から借りる。5分ほど歩くと川(長笹沢川ながざささわがわ)があって橋を渡る。橋から川を眺めると石がどれも赤い。これは上流に国内第2位の生産量を誇っていた「群馬鉄山(現 チャツボミゴケ公園)」(昭和19年~昭和40年)があり、流れ出た鉄分のせいとのこと。渡ってすぐ“露天風呂”の看板から川原に降りる。川幅いっぱいに二つの堰が設けられており、その堰と堰の間の川底から湯が湧き出ている。皆いかにも楽しそうに見えた。川に入ると川面は結構熱かった。川の水量によっても湯温は変わることになる。川底の石はぬるぬると滑りやすく移動するのに注意を要する。はたから見るほどゆっくり楽しむというわけには行かなかった。雨の後など水量が多いと入れないこともあるそうなので入れて幸いであった。上流側の堰の先には“おたまじゃくし”が泳いでいたのもご愛嬌。夕食の前に宿の露天風呂にも入る。川に面した石つくりの大きな風呂で、澄み透った柔らかい温泉を、ゆっくりと楽しんだ。泉質 カルシウム・ナトリウム・硫酸塩・塩化物温泉。寝る前にまた露天風呂に入る。

翌朝、起き抜けに階段を下ったところのもう一つの露天風呂に入る。また花敷温泉まで送っていただく。快晴のなかバスで野反湖に行く。野反湖は長野県との県境にあり周囲10km、標高1,513mの南北に細長いダム湖で、その湖水は魚野川から信濃川に合流し日本海にそそいでいる。上信越高原国立公園の特別地域および自然休養林に指定されている。野反湖周辺は高山植物の宝庫だそうで、この時期 野反湖の南側 富士見峠(野反峠)の近くがシラネアオイ(*)の群生地であるとのことでそこに降りた。峠からは浅間山などの山並みが見える。峠から野反湖を眺めると、抜けるような青空に真っ白な雲が少々、湖面の青と周囲の山や木々の緑が綺麗だ。そばの八間山登山口から登り始めて後を振り返ると峠では見えなかった草津白根山が近くに見えた。ちょっと登って案内板を左に曲がり、10分程進むと斜面いっぱいに想像を超える群落があり、ちょうど見ごろでもあり堪能した。さらに植栽整備を広げているようである。峠に戻ってから1人を留守番に3人で野反湖の湖畔まで降りてみる。静かな湖面に釣り人が二人、糸を垂れていた。思いがけず高原のハイキング気分を味わう。野反峠休憩舎で昼食を済ます頃にはだいぶ雲が出てきた。帰りのバスに乗って目が覚めたら長野原草津口駅だった。
大宮駅で下車し、魚介類の網焼きで一杯また一杯。満足した二日間であった。

(*)シラネアオイ「白根葵」
キンポウゲ科シラネアオイ族の多年草の一種。深山の植物。 日本固有の1属1種
北海道から本州中北部の日本海側にかけての山地帯で亜高山帯のやや湿り気のあるところに分布。高さ20~30cm。花期は5~7月ころ。花弁はなく7cmほどの淡い紫色の大きな萼片(がくへん)が4枚あり、大変美しい姿をしている。和名は日光白根山に多く、花がタチアオイに似ることからシラネアオイ(白根葵)と名づけられた。別名「山芙蓉(やまふよう)」、「春芙蓉(はるふよう)」ともいう。
(ウィキぺディアより)

赤城・足利

昨年11月初めに群馬県・赤城温泉郷に泊り、翌日 栃木県・足利學校を訪れた。

大宮駅で4人が揃いJR高崎線、両毛線、上毛電鉄(上毛電気鉄道)と乗り継ぎ大胡(おおご)駅に降りた。上毛電鉄の下り始発駅、中央前橋で最後尾の車両に乗ると自転車を持ち込む人がいてびっくり。メンバーのS氏はかなり前に乗ったことがあり、その時は鍬をかついだ農夫が入ってきたと言う。昔から近在の足となって利用されているようだ。

大胡からはバスで赤城山麓にある赤城神社に着く。赤城山の上にも赤城神社があるがここは三夜沢(みよさわ)赤城神社と言う。鬱蒼とした樹木に囲まれ、霊気を感じさせる雰囲気の神社であった。迎えの車で赤城温泉郷 滝沢温泉滝沢館に着く。渓流沿いの一軒宿で、さっそく露天風呂に入った。対岸の紅葉を眺めつつ、川の流れを聞きながらのんびりと入った。すぐ脇に源泉(24.5℃)そのままという一人しか入れない壺湯があったが冷たくてすぐ出てしまった。泉質はカルシウム・ナトリウム・マグネシウム・炭酸水素塩冷鉱泉。夕食は鯉のあらい、山菜の天ぷら、陶板焼き、野菜の煮物などで満腹。部屋でもちびちびやりながらよもやま話。そのうち横になる者も出てきて“寝よう”となった。内風呂に入っておとなしく床についた。天気の良い一日であった。

今日も快晴。大胡駅から下り終点西桐生駅まで乗る。窓の向こうに赤城の山並みがしばらく付いてきた。西桐生駅からJR両毛線の桐生駅まで歩き足利駅で降りる。

食事処を探しながら街なかを歩く。人通りは少ない。途中土産物屋を覗いた。鑁阿寺(ばんなじ)そばの“門前そばきくや本店”に入った。東門から入って国宝 鍐阿寺を参拝した。足利家の氏寺で大日如来がご本尊。足利氏館跡で広大な敷地の四方に門を設け、堀と土塁が張り巡らされていて、鎌倉時代の武家屋敷の面影を伝えているそうだ。楼門(山門)は立派だ。樹齢約600年の大銀杏を見あげる。

次に日本最古の学校 足利學校に行く。正面の“入徳門(にゅうとくもん)”をくぐって受付で“足利学校入学証”をいただく。先にすすんで“學校門”を通る。南庭園の字降松(かなふりまつ)※を見て、さらに“杏檀門(きょうだんもん)”をくぐった。そこは孔子廟である。つぎに庫裡、方丈、書院など見学した。方丈は学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用されたとのこと。明るく開放的な雰囲気であった。街の人通りにくらべ参観者は多かった。見学後 入徳門を出たところの店で味噌饅頭とお茶で休息した。足利駅から小山駅まで行きJR宇都宮線に乗換えて大宮駅に戻った。

※字降松(かなふりまつ) 読めない字や意味の解らない言葉などを、紙に書いてこの松の枝に結びつけておくと、翌日にはふりがなや注釈がついていたことから「かなふりまつ」と呼ばれるようになったと伝えられています。(足利学校パンフレットより)

甲府

二日目、またタクシーで勝沼ぶどう郷駅へ。中央線・甲府駅で降りる。甲府市観光案内所でJR東日本の“駅からハイク・いつでもコース”の受付を済ます。「七年に一度の勝縁!甲斐善光寺御開帳と甲府の街歩き」に参加したのだ。

まず“舞鶴城公園”に行く。舞鶴城は甲府城の別名である。一日目に行った勝沼の柏尾古戦場跡の説明によると、当初近藤勇ら幕府軍はこの甲府城に入り官軍を迎え討つ予定であったが、官軍に先に入られてしまい、やむなく柏尾山の麓で戦ったということだ。この城址修復の比較的早い時期から何度か訪れていたが、立派な城址公園が出来上がっていた。稲荷曲輪から稲荷櫓と進み、その先の広場の東屋で休憩、すぐさま日本酒で乾杯。静かで、空気も酒も美味し。鍛冶曲輪を行き遊亀橋から出る。

つぎなるコースの“甲府市役所展望ロビー”と“能成寺(のうじょうじ)”はパスし、“印傳屋”に入る。印傳(いんでん)は甲府の伝統的な加工品で鹿の皮に漆で細工を施したもので財布や、印鑑ケースなど種々ある。店内を見て次の“東光寺”に向かう。

東光寺では目当ての一つが“仏殿”(重要文化財)であったが生憎修復中で、その素晴らしいカーブの二重屋根は上の部分しか見えず誠に残念であった。この仏殿は武田滅亡後、織田信長により焼かれたが仏殿だけが焼け残り、また甲府大空襲(昭和20年)でも仏殿だけが焼け残ったそうだ。結局、本堂には上がらなかった。8年前に来たときには本堂の縁側に座り庭園を眺めながら静寂を満喫したものだった。

“かいてらす(山梨県地場産センター)”を経由して“甲斐善光寺”に入る。さすがに人はやや多い。金堂にあがり、ご本尊(阿弥陀如来)に向かって拝む。秘仏で直接目にすることはできない。手を打って天井の鳴き龍を聞く。そして戒壇廻りだ。階段を下り真っ暗な通路の壁を頼りに手探りで歩く。ちょうどご本尊の下にある鍵に触れるとご本尊とご縁が結ばれるという。確かに触れた。階段を上がり金堂を出る。宝物館を見学したあと、金堂前に立てられた回向柱に触れ四人が再び何事か念ずる。そばに案内の若い女性が待機していて、勧めもあり回向柱に触れながらの記念写真をお願いした。御開帳もあと二日を残すのみであった。

酒折(さかおり)宮を経由して中央本線・酒折駅にゴールした。うす曇りではあっが、じっとりと汗ばみ約5kmとはいえけっこう疲れた。

相模湖駅に途中下車し、駅前の懐かしい“かどや”でうす暗くなるまで打ち上げをし帰途についた。

今回の旅(勝沼と甲府)は、時間に追われた二日間であった。もう立派な老人たちであるから、次回からのんびりしたスケジュールにしよう。

勝沼

5月下旬、高尾駅に4人が集まり、中央本線・勝沼ぶどう郷駅に降りる。駅を出て左に線路沿いを行く。ぶどうの丘やぶどう畑、南アルプスの山並みなど眺めもよくプラットホームに見立てた屋根つきの休憩所まであり展望ポイントとなっていた。

そばの階段を上がるとすぐ大日影(おおひかげ)トンネルだ。煉瓦造りで線路もしっかり残っていた。明治36年に開通、特産のぶどうやワイン、樽などの輸送に大いに寄与したとのこと。平成9年に廃止、平成19年に遊歩道として整備された。30分ほどで通り抜けられた。通り抜けると深沢口トンネルがあり今はワインカーヴ(貯蔵庫)として活用されている。トンネル内をぶどう郷駅に戻る。戻る際下り勾配に気が付いた。

駅前のタクシーで“ぶどうの丘”に行く。ぶどうの収穫時期でもなく、平日でもあり人は少ない。売店の地下ワインカーヴに降り白、ロゼ、赤と試飲する(有料)。そこを出て近くの店に入り、“思蓮(おもれ)ほうとう”を食べる。ぶどうに多く含まれているポリフェノールが麺に練り込んであるのだそうだ。このぶどうの丘は“思蓮山(おもれやま)”と呼ばれていたとのことで名づけたそうだ。ぶどうの丘からのぶどう畑や山々の景色も緑がいっぱいで気分がいい。

タクシーを頼んで柏尾古戦場跡に行く。近藤勇ら幕府軍と板垣退助ら率いる官軍が戦ったところで、山梨県内では戊辰戦争での唯一の戦いがあった場所とのこと。近藤勇らは敗走した。ちなみに土方歳三は援軍要請に江戸に向かっていて参戦していないという。柏尾橋の側で、近藤勇の石像もあり、それなりに整備されていた。

そこからすぐの大善寺に行く。国道から右に入り脇道を行く。山の麓にある本堂(薬師堂)前に出た。この本堂は国宝で、すっきりと裾を広げた檜皮葺の大屋根が見事だ。本堂の前に菩提樹があり、ちょうど花が満開で、ほんのり甘い香りがした。木の下には丸太の椅子があり“瞑想してみては”との説明書き。大善寺はぶどう寺と言われており、平安時代初期のぶどうをもった大善寺本尊薬師如来像と日光・月光菩薩像は秘仏として厨子(国宝)に納められており拝むことはできなかった。厨子両脇の須弥壇上にある鎌倉時代の日光・月光菩薩像と十二神将立像は国指定文化財とのこと。元気いっぱいの女性が滔々と説明してくれた。拝観後、長い石段を下り山門を出て大善寺に入る。きょうの宿だ。大広間で冷たいお茶を飲みながら、のんびり休んだあと部屋に入った。

さっそくお風呂に入る。大きな浴槽で気持ちが良い。何故か上がり湯が出なかった。部屋で寛いでいたが夕食の頃合いになっても何の連絡もない。しびれを切らして食堂を覗くとすでに準備はできているようだ。よく見ると入口に食事時間の張り紙があった。食事をしていると、最前の元気な女性(どうも女将さんのようだ)が入ってきて“上がり湯が出なかったでしょう”と行って謝った。昼間の電気工事で電源が切れたままになっていたそうでおかみさんも我々も大笑い。寝る前にまた風呂に入ったが、今度はちゃんと湯が出た。 甲府につづく。

土方歳三記念館

昨年の春のとまりぎ旅行は、大雨にたたられ散々であった。そのあと暑気払いということで7月下旬、京王線高幡不動駅に4人が集まった。梅雨が明けきらず、空はどんより蒸し暑い日であった。駅近くで昼を済ませ、多摩都市モノレールに乗り「万願寺駅」に降りる。歩いて数分のところにある閑静な住宅地の中の一軒が土方歳三の生家で、住居の一部が資料館となっている。元八王子在住の元酒豪氏が日野に“資料館があるよ”とのささやきがあって決めた。“土方歳三”には何か惹かれるところがある。

資料館には愛刀、鎖帷子、籠手、鉢金の武具や書状等が展示されており、老人には、ほど良い広さであった。入口脇には稽古に使われた木刀を模したものがあり、手に取って振ることができた。その太い握りと重さは尋常ではなかった。予想を超える来館者だった。近年、若い人達にも人気が高いという。訪れている人達の中に若者、しかも女性が目に付いた。

土方歳三は、東京都日野市の豪農の家に生まれたが剣の道に進み、近藤勇らと出会い、のち新選組の副長として動乱の中、京都の治安維持に当たるも、戊申戦争で新政府軍に追われ、江戸に下り、さらに下総流山、宇都宮、会津、仙台と転戦、榎本武楊と共に箱館五稜郭に入る。蝦夷地の開拓と北辺の護りににつくも、新政府軍との戦い(函館戦争)で明治二年五月戦死する。享年35歳という生涯であった。武士道貫徹という生き様に人々は惹き付けられるのであろうか。

つぎに高幡不動駅まで戻り、土方歳三の菩提寺でもある高幡不動尊金剛寺を参拝した。境内には土方歳三の銅像が端然と立っていた。重要文化財の仁王門(室町時代)や大きな不動明王像(平安時代)のほか見どころいっぱいである。高幡不動駅からの商店街、参道は日曜日にもかかわらず人通りが少なかった。暑気払いに適当な店を探したが閉まっているところが多く、やむなく高幡不動ショッピングセンターのレストランに入り乾杯した。もうひとつ盛り上がりに欠けた。時間もまだ早く、ではカラオケということになり上北沢駅に向かった。

時間が早すぎたようで目当ての店も閉まっていた。目の前の居酒屋に入って二度目の乾杯をした。外に出ると道は大いに濡れており、大雨が上がったところらしい。まったく気付かなかった。駅に着くと変電所落雷で電車は不通、復旧の目途はないという。上北沢在住のS氏の案内で小田急線の経堂駅に向かうことにした。しばらく歩いてタクシーがつかまりS氏とは別れた。経堂駅前は夏祭りで賑わっていた。
また雨にたたられてしまった。

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数馬の里ふたたび

梅雨に入ったあと各地は集中豪雨に見舞われ、明けると猛暑攻め、そして台風の到来、いまだ集中豪雨が続いている。関東地方が梅雨入り宣言のあとすぐ、雨のなか4人が立川駅に集まった。南秋川上流の檜原村は数馬の里(兜造りの大屋根の家が散在する)が目的地だ。その前にバスで立川市役所近くの国立極地研究所 南極・北極科学館に行った。土砂降りのなか昭和南極基地の犬橇犬たちのお出迎え。館内は六つのコーナーになっていて、見どころは南極・北極オーロラの同時実況画面、直径4mの全天ドームスクリーンによるオーロラシアター、昭和基地から南極点に到達した大型雪上車、昭和基地周辺の様子の生中継、南極、北極の生き物など。現地で採取した南極の氷にも触れることができた。南極点到達雪上車は実際に乗り込むことができ、その生活ぶりの一端が窺えた。そしてこの雪上車は2014年度機械遺産(※)に認定された。
立川駅から武蔵五日市駅に、さらにバスで約1時間 終点”数馬”に降りる。あいかわらずの激しい雨だ。バス停近くの宿“山城”に逃げ込みやれやれ。この宿は古くは民宿であったが平成21年より1日2組限定の旅館としてリニュアルオープンした。大きな木造2階建てで、この築400年以上の建物は平成23年、国の登録有形文化財に登録された。この山城には平成7年の秋に訪れていた。その時“数馬の里発祥の家”の看板に引かれ庭を覗き込み、ちょうど割烹着に姉さん被りのおばあさんが出てこられ、これ幸いと声を掛けてお話を聞き、土間に入りこみ居間なども見させていただいたことがあった。

今回は落ち着いた部屋に通された。すこし休んだあと、この部屋専用のお風呂に行く。薪で沸かしているとのことで柔らかく湯温も心地よく長湯した。天然鉱石(ラジウム、ゲルマニウム、他)が入った鉱石泉である(天然温泉ではない)。効能は皮膚病、ストレス、冷え症など。夕食は山菜と川魚が主体で、いろどりや量、味など満足。部屋にもどり静かに話し込んだ。布団に入ったが雨が気になってなかなか寝付けなかった。
翌朝、まだ激しい雨。朝食を済ませ部屋に戻ると電話があり“今日はバスが終日運休になった”との連絡。雨量が規定値を超えたのだそうだ。もう一泊するならと好意を示されたが返事をためらった。ふたたび“今ならタクシーが来てくれる”との電話があり即座にお願いした。タクシーが走り出すとホッとした。
武蔵五日市に着いたころは小降りになっていたが交通機関の乱れも心配で素直に帰ることにした。八王子駅近くで昼のあと子安神社を参拝し京王線に乗ったが、なんとなく別れがたく新宿で軽く一杯やった。さすがに盛り上がりに欠けた。
この二日間、青梅、奥多摩、檜原村一帯は集中豪雨の真っただ中であったのだ。

(※)機械遺産とは一般社団法人日本機械学会が機械技術の発展に貢献したとして 認定した日本国内の物件。(ウィキペディアによる)