角田 稔
2007.4.19
旅をするのは楽しい。未知の風物、人との出会い、古い歴史、と何かが待っている。旅の中では何時も自分しか感得し得ない何かがある。時間を作っては足の向くままにあちこちへ出かけたのは若い頃であった。この頃は、旅の準備をするのも人任せ、誘われるままに出かけることが多くなった。
何時もは揃わなかった家族が稲取温泉へ出かけたのは丁度河津桜満開の頃であった。時節柄満員であった宿の一つに、キャンセルで一部屋空いたという情報を得たのは旅行会社に勤める娘であった。幸いにして外地に居る娘も一時帰国していた。短いながら、久方ぶりの家族揃っての旅となった。
稲取の駅から出迎えの車で宿に向かう途中、街角の空地に人だかりがあった。露店が並び、美しい飾り物を並べていた。聞くと吊り雛を売っているのだという。車はそのまま行過ぎて宿に着いた。ロビー正面に豪華なひな壇があった。ひと際華やかに見えたのは周囲に吊り飾りが巡らされていたからである。気がつくとカウンターの上にもずらりと飾りが並んでいた。吊り飾りは形の違った数個の布袋を紐で順に連ねた5,60センチの長さで、布切れの色が様々でそれだけで楽しめる。布袋の中には米粒や豆粒が入れられて豊穣の願いが込められている。雛飾りに換えて吊り雛として手軽に自分で作ったのが始まりらしく、江戸時代にさかのぼる伝統行事である。一旦は廃れたが、戦後再び復活しこの地区の名物となった由である。雛壇が各家庭に普及してからは雛を吊るすのは一見照る照る坊主を想起させるのか、宿屋で見るような吊り飾り、或いは吊り飾り雛となったらしい。東京でも上野近辺に吊り雛の風習があり、日野市では稲取の行事を参考にしながら近年始められたそうである。もともと雛祭りは平安時代京都で始まり裕福な人達が受け継いで広まったものである。江戸時代どうしてこの地区で吊り雛の習慣が生まれ伝えられたのか、女子の誕生を祝う市民の思いがこのような形で表現されるようになったのかにはそれなりの地史的背景があったに違いない。
翌朝タクシーで途中の景観を楽しみながら、河津桜を観に出かけた。何時ものことながら運転手が土地の人であると話が聞きやすい。あれこれと情報を得た。運転手の名前は山梨さんというのでてっきり山梨県の人かと思ったら、伊豆は下田の人で、この姓を名乗る家が50戸ほどもあるとのことであった。姓と土地が直接関係するとはいえないが、山梨さんと山梨県を結びつけたのは、川端康成 伊豆の踊り子 に出てくる男旅芸人と踊り子が甲府出身であり、下田の木賃宿の名が甲州屋であったことをふと思い出したからである。小説では、主人公である20歳の一高生が踊り子達と天城峠を越え、河津川沿いの下田街道筋の宿に宿泊しながら下田に向かったとあった。電通大初代学長寺沢寛一先生も度々この地に足を運ばれ、河津七滝(ななだる)や温泉を楽しまれたと聞いている。河津の近くに猪肉の鍋を売り物にする小さな宿があり、主人が自称猪狩りの名人で、猟犬と猪との格闘の話になると、犬の性格描写も織り交ぜて講釈師そこのけの名演であった事を思い出した。
一本の河津桜は大島桜と緋寒桜との自然交配によって生まれ、発見から50年間にこれを数千本に増やして、現在観るような桜並木に仕立てたとのことである。この地域の人達の努力と先見の妙には敬服するばかりである。河津川の堤は満開の桜の緋色と菜の花の黄色に華やかに彩られ、そぞろ歩きする人々を喜ばせた。川面に遊ぶ番の鴛鴦も愛らしかった。南伊豆へ来ると何となく京都を思い出させる地名がある。上賀茂、下賀茂、一条、二条、上二条、それに南禅寺まである。一帯が賀茂郡であり、この中に河津町、松崎町、賀茂村、東伊豆町稲取などとなる。地名の由来などはよくは分からぬが、古の人々の移動範囲は意外なほどにひろく、宗教や文化の影響が京都にもある地名に残っているのではないかと、旅のつれづれに勝手な想像をめぐらせた。