出雲路の旅 3 神話の国

角田 稔

2006.10.15

出雲の国は神話に関わる伝承や神社、地名が多く残されている。この地を訪れ、ドライブする度に、古の事ごとに想いが馳せるのはこのためであると思う。とうとう出雲風土記、古事記を読み返すことになってしまった。奈良時代の初頭、和銅6年(713)諸国に命が下って、国の郡(こおり)郷(さと)に名前をつけ、郡内の物産品目、土地の肥沃さ、山川原野名の由来、伝えられる古い伝説などを書き記す事になった。出雲の国には郡9郷62があった。郷は50戸単位であるのでおよその人口を推定できる。要所までの距離、土地の広さの数量の細かな記述に驚かされる。出雲の国らしい伝説の豊かさも素晴らしい。大事業であった事を裏づけるように、20年後の天平5年(733)になって出雲風土記は提出された。既に、太安万侶によって、和銅5年(712)稗田阿礼記憶する伝承を国家統一の考えに基づいて纏められた古事記がある。これを考慮に入れたに違いがないが、出雲の国の司がまとめた風土記には出雲の神々に対する特別な思いが満ちている。神庭荒神谷や加茂岩倉で多数の埋蔵銅剣、銅鐸などを目の前にし、風土記を思い返すと、にわかに神々の活躍ぶりが身近に感じられるようになる。

この度訪れた加茂の里のある大原郡は東西に広がる出雲9郡の中央部にあり、出雲地方東西を結ぶ交通の要衝であった。神原の郷、屋代の郷など8郷よりなり、広い平原(11ヘクタール程)があったのでこの名前が着けられたとある。中央を東西に流れる赤川流域には神社が集中している。既に紹介したように、岩倉は神の降臨される巌座の意があるとされていて、矢櫃神社は矢代の矢を掌る神の社で、岩倉の鎮守神である。風土記によると、岩倉のある屋代の郷は矢代、天の下をお造りになった大神が的置きの盛り土を立てて矢を射られた場所であり、倉庫があった。また屋裏の郷(やうちのさと)では矢を射たてたとある。屋代や屋裏は矢代、矢内が後に書き改められたものであり、当時、主要な武器が矢であったらしいことを窺わせる。矢の字の与えるまがまがしさを嫌って屋に代えられたのかもしれない。

神原の郷は『天の下所造らしし大神の御財を積み置き給ひし処なり。則ち神財(かみたから)の郷と謂う可きを、今の人猶誤りて、神原の郷(かむはらのさと)というのみ』とある。天の下所造らしし大神(天の下をお造りになった大神)である大穴持命(おほなもちのみこと)はこの地域で武力を蓄え反対勢力を鎮圧し、また多数の鋤で辺りを開墾させた一大勢力の統率者であったようである。その活動の伝承は風土記の随所に叙述されていて、国造りの荒々しさを感じる。
神原神社は財宝を掌る神(神宝大明神)の社であり、現在は赤川南岸にあるが昔は北岸にあった。景初3年(239)の銘のある銅鏡や多数の鉄器などの財宝を埋蔵した古墳の上に元の神原神社社殿が建てられていたので、神宝大明神はこの古墳と深い関係にあったに違いない。魏志(倭人伝)に、弥生時代後期に当たる景初3年、邪馬台国女王卑弥呼が魏の明帝より銅鏡100枚を下賜されたとあり、その1枚が神原神社古墳出土の銅鏡ではないかといわれている。卑弥呼と被葬者との関係或いは卑弥呼自身についてさまざまな憶測が可能である。また、出雲の山地が優良な砂鉄の産地であることから、被葬品である大量の鉄器はこの時代にこの地域で製作されたものである可能性があり、何時の時代から鉄の産出が始まったのか興味のあるところである。宝剣を体内に隠していたと伝えられる八岐大蛇の話は製鉄部族の存在を想わせるが、この話は風土記にはない。大原に住む知人宅の裏山に宝物が埋蔵されているとの言い伝えがあり、折に触れ親戚連中の話題になっているのも、真偽はともかく、風土記を読んでみると、いかにもありそうなことに思えてくる。
多くの神々が集まって地面を突き固め、ここに宮殿を作って大穴持命に奉られたとあり、これが杵築(きずき)大社(出雲大社)である。奈良の大仏殿や大極殿よりも大きい最大の建物であった事が平安時代初期(800年頃)の書き物に記録されているが、50メートル近い高さの木造建築であったといい、当時の建築技術の優秀さを物語っている。記紀では大国主命の国譲りの物語として記述されている部分である。
10月は神無月と称されている。出雲大社に全国の神々が集まるからである。風土記を読むと、神事を議する神々の姿が見えるような気がする。

参考資料:日本書記、古事記、出雲国風土記