角田 稔
2006.8.13
長時間疾走するマラソンは最も厳しいスポーツの一つである。沿道に立ってみると、何しろ平均秒速5m以上である、選手はあっという間に目の前を走り去ってしまう。不思議なことに男子選手の場合は力走する姿に感動することはあっても、力まずに応援することが出来る。誰が、どれほどの時間で走れるか、に素直に興味が持てる。力瘤、筋肉隆々、鍛えた肉体を持つ人の躍動する姿はそれ自身逞しく美しい。これに対し、女子選手にはついはらはらさせられる不安な気持ちが付きまとい、頑張れと声を出したくなる。どの選手も外形が柔らかで、鍛えてあるはずの筋肉も脂肪質の膚に包まれ、道であってもそれとは気が付かないであろう自然さがあるからであろうか。孤独で過酷な運動に自分自身を追い込んでゆく精神力の強さに感心しながら、それでもなお手弱女の思いが頭に上るせいだろうか。大股に身体をぐいぐいと前に押し出すように走る人、すたすたと小走りに滑るように走る人、頭と腰が上下動もなく、水平に移動するように走る姿は美しく映る。30kmを過ぎた頃からが大変らしい。何時のレースだったか、先頭を走っていた女子マラソンのエース高橋選手の様子がおかしくなった。足の蹴りが弱くなったのか、足の運びが重たくなったのか、スピードが急に遅くなった。期待していたように先頭切ってゴールすることはなかったが、高橋選手は完走後、その一番苦しかった折、沿道の人々の声援に背中を押されて走ることが出来たと、応援に対しての感謝の言葉を先ず発したことが印象的であった。長距離を走り終えた選手から出る声援に対する感謝の言葉は、儀礼的な謝辞ではなく、極限状態で活動している人の切実な思いであろう。思わずジーンとさせられるのである。マラソンには声援は必要なのである。
マラソンと比べると時間は短く数分に過ぎないけれども、氷上で舞うフイギュアースケートは集中力の欠かせぬ競技である。男性選手の演技は豪快できびきびしており、女性選手のそれは優雅で魅惑的である。観客の緊張感もテレビ画面で察することが出来る。選手の美技には必ず拍手がある。観客は演技の流れに酔いながら、見せ場では拍手で反応する。選手も演技の成功を拍手によって確認できるであろう。スケート靴を履いて氷上を滑るどころか、立つことすらも覚束ない素人にとっては、例えば3回転なのか4回転なのか、或いはその中間なのか良く分からない。ぐっと足を上げて片足で滑ったり、よくもあれで目が廻らないものかと思う速さのスピン、不安定この上もないように見えるビールマンスピン、滑走しながらどうしてあんなに体を曲げることが出来るのかと思うイナバウアーなど、素晴らしい妙技にはどれも感心してしまい、誰の演技が勝れているのか見当もつかない。これらの妙技が音楽に合わせて次々と繰り出されると、素人の目には、審判はどの点に着目して点数をつけるのかと疑いたくなるほどにどれも美しく映る。この点テレビでは適切な解説のあるのが嬉しい。スター選手として有名であった女性解説者から、演技の流れに沿って、あたかも自らも滑走しているかのように、演技の何処を見るのか、技術的にどの部分が難しいのか、演技の評価の仕方、出来具合はどうか、など適切な説明がある。何度か聞くとフギュアースケートの如何に難しいスポーツであることや素晴らしさが分かってくる。滑っているご当人には直接届くわけではないが、後でこの解説を聞けば随分と参考にもなり、激励にもなるであろう。女性解説者が、私もあのように滑ってみたいと言ったのは最大の賛辞と声援ではなかったろうか。