出雲路の旅2銅鐸

角田 稔

2006.8.2

銅鐸、銅剣、銅矛が用いられたのは弥生中期、紀元前1世紀から紀元1世紀頃までと、その期間は短かった。最古の古墳とされている古墳時代前期の神原神社古墳の副葬品に多数の鉄器の納められていたように、急速に鉄の時代に移ったものであろう。
加茂岩倉遺跡の銅鐸
雲南市加茂の岩倉本郷谷の最奥部、見晴らしの余り好くない南向き、高さ20mばかりの中腹急斜面に遺跡はあった。39基もの銅鐸が1箇所から纏まって綺麗に収蔵されていた例は他にはない。銅鐸は農耕や稲作に関係した祭りに用いられ、吊り下げて、内部に吊った棒状の舌と呼ばれる金具で叩いて音を出す楽器であったらしい。遺跡から発掘された銅鐸の幾つかの特徴を上げ、勝手な素人の想像をも加えてみよう。
1.大きさは全高大44-47cm、小29.5-32cmの2種類で、大銅鐸の内側に小銅鐸を入子にして埋蔵してあったものが15組あった。入子にした理由は、収蔵を簡単にするために大の中に小を入れ込んだという単純な考えもあるが、陰陽、天地、男女など対極の関係を祭儀に用いるために大小銅鐸を揃えたのかもしれない。当然ながら技術的に見ても大銅鐸の方が小銅鐸より後に製作されたものと考えられるので、新旧を合体させたことに意味を見出す説もある。
2.鈕(ちゅう)と呼ばれる吊手の上から半分くらいの高さの所、銅鐸の身の両側に2個の孔がある。銅鐸の正面写真を見ると人面の両眼のように見えるのが不思議であるが、装飾とは考えられない。意図的にあけたものには違いないが、初期のものほど素朴な孔、後期のものは幾らか形が整って小さい。祭事の時の発音体として特別な考え方、例えば音を掌る神の目、出入り口、まじない、或いは穴に何か祭事用の物を下げるためなど、謎である。しかしその音を聴きながら神の去来を信じたであろう古代の人々の姿が思い浮かぶ。この当時、祭事に、木托、銅鑼、或いは硬い物を叩いて音を出し、人々が喜んだり、踊ったりすることは無かったのかどうか、祭りの様式、発音体、楽器の変遷などを考えると面白いが、ただ想像を巡らせるだけである。 3.鈕から流れるように銅鐸の身の両側に鰭と呼ぶ装飾部分、形の安定と強度の補強にも用いられたらしい部分がある。身には、流水文、袈裟襷文が描かれ、この配置文様は特徴的で、これによって銅鐸の分類がされている。全国の銅鐸の1割ほどに、シカ、トンボ、サギの絵が描かれておリ、古代の人々がこれらの生物にこめた愛着、畏敬が想像できる。出雲の銅鐸には独特のシカ、トンボの絵があり、この地で造られたものではないかと思われている。銅鐸の鈕にx印のあるものが少なくとも12点ある。鋳造後に付けられた印であり、まじないの記号かそれとも所有者の印か、その意味するところは明らかでない。同じ印が神庭荒神谷遺跡から出土した銅剣にも付けられていることから、印の付いた銅剣、銅鐸を所有していたのが同じ部族群であったらしいこと、両遺跡ともに同じ時期に収蔵されたらしいことが想像できそうである。岩倉遺跡では銅鐸は鰭側縁が水平に揃うように並べられ、荒神谷遺跡でも銅剣や銅鐸は綺麗に並べて収蔵されていた。銅器を祭事に用いた

時代が劇的に華々しく終焉を迎えたことを推測させる。 
4.29個の銅鐸が石製鋳型、そのうち15個8組が同じ鋳型で作られたと考えられている。 青銅器製作は古く中国の殷、周の時代(紀元前10数世紀)に遡り、その製作技術は現代でも驚くほどに発達していた。青銅器製作技術者の伝来は遅れたが、河内や畿内には石製鋳型が発見されており、多くの銅鐸がここで製作されたものであろう。残り10個は土製鋳型で造られたもので、出雲地方独自の模様のものもあるが、鋳型は発見されていない。現代風に言えば、高価で得難かった筈の銅鐸多数を購入し、畿内から運び入れた理由は何であったか。恐らくは神事を尊び、銅鐸を祭事に用いるための強い欲求を持つ部族群が存在したためであろうが、如何なる方法で何を原資に取引をし、どのようにして運搬したのか、またそれだけの努力を払いながら、ある時期に全部の銅鐸を纏めて収蔵し、部族群の祭事から除外した理由、部族郡の意思をどのようにして纏めたのか、その方法は何であったのか、想像を馳せるのは自由である。時代の変遷があったのであろう。部族群の支配勢力が換わったのであろう。弥生時代から古墳時代へ移行し、鉄器が製造されるようになったのは紀元5、6世紀頃という。奥出雲は良質の砂鉄の産地であった。
神庭荒神谷遺跡の銅剣、銅鐸、銅矛
荒神谷遺跡は斐川町神庭の小さな谷間、標高22mの南向き急斜面に発見され、遺跡の南側に祭られている三宝荒神にちなんで荒神谷遺跡と命名された。近年周辺が史跡公園として整備されている。
 全国でこれまでに発見されている銅剣総数は300本余りだったので、この遺跡で358本もの銅剣が発見されたのは学術的にみても驚異的であった。銅剣の長さは約50cm、中細形で、出雲型銅剣と呼ばれている。358本の銅剣のうち344本の茎(なかご)に、岩倉遺跡の銅鐸に見出されたと同じx印があった。銅剣は弥生時代初期(紀元前2,3世紀)に武器として大陸から齎されたが、わが国で製造されるようになってからは祭祀用とされたらしい。もしもこれだけの数の銅剣を武器として用いたのであったとすれば、その部族群は大きな武力を持っていたことになるであろう。
銅剣埋蔵場所から僅かに7m離れた所に銅鐸6個と銅矛16本が揃えて収蔵されていた。銅矛は袋状になっている根元に柄を差し込んで武器としたもので、発見された銅矛の長さは68.5-84cmもあり、大きなものは必ずしも武器として用いたのではなく、祭事用とされたものかもしれない。銅剣、銅矛共に美しい形をしている。銅鐸はやや小型で約23cmの大きさで、片面がそれぞれに、重弧文、市松文様の珍しい文様の飾りがあり、国内出土の他の銅鐸には無い中央がふくらんだ断面の鈕が付いている。大きさと飾りが岩倉遺跡出土の銅鐸とは趣を異にしているのも面白い。
律令制が制定され、出雲国風土記は天平5年(733)に作られた。風土記や記紀神話を思い起こさせる地名や遺跡の数々は出雲の旅をますます楽しくさせる。

参考資料:司馬遼太郎(街道を行くシリーズーー砂鉄のみち、韓のくに紀行、因幡・伯耆のみち);荒神谷博物館資料;加茂岩倉遺跡 銅鐸の謎