中野 章
1999.6.2
「電通大経友会」なる会がある。
これは電通大とその前身の無線電信講習所卒業生の中小企業経営者の親睦団体である。年に数回の飲み会、電通大教官諸氏との交流会や市場調査、工場見学?を兼ねた旅行会を行ってきた。メンバーは若干の入退会の異動があって平成11年4月現在11名である。
そして今年は発足後15年目を迎えた。
かねてより、節目の年には何かおいしいものを食べに行こうという話があり、魚が美味くて、景色と歴史の町萩市(筆者の郷里)を中心に長州を周遊しようということになった。8名が参加した。
秋芳洞と秋吉台:
好天気に恵まれた5月20日羽田を飛び立った一同は宇部に降り立ち、レンタカーを駆ってまず秋芳洞、秋吉台にむかう。
気が遠くなるような年月で創造された東洋一の洞窟をくまなく探索、その自然の芸術を堪能。洞窟から地上に上がると、そこはこれまた世界有数のカルトス台地秋吉台である。千古の昔、海の底であったという見渡す限りの景観に人間の卑小さを思い知らされる。
西長門海岸と青海島:
秋吉台を後にして西長門(山口県の西北部)に向かう。
ここは海岸線の美しいことで知られ、今はやりの地名付き推理小説(木田恭介-萩西長門殺人事件)の一舞台にもなった。響灘の海象、白い砂浜と沖の島影に沈む夕日が織りなす調和はこの地の売り物である。ここに一泊し、左に出たり隠れたりする日本海に沿って青海島に向かう。途中気まぐれに楊貴妃が唐より逃れ流れ着いたとの伝説の地に立ち寄る。大理石の楊貴妃像を仰ぎみる。まゆつばものの伝説であろうが、この像はふるさと創生基金一億円で建てたとの説明書きを読んで「こういう使い方もあるのか」と変に納得する。
青海島は遊覧船での島巡りが見せてくれる海食による岩壁の荒荒しさと珍奇な岩礁は「海のアルプス」との別称が必ずしも僭称でないことに頷かざるをえない。
萩:
次はいよいよ本命の味と歴史の町萩に向かう。
山口県は県庁所在地山口市から県内何処でも一時間以内で行ける事を道路行政のモットーにしているだけに整備された道路が四通八達している。アット云う間に萩市内である。観光定番の萩城址、松下村塾、松陰神社、笠山、萩焼き窯元や武家屋敷を訪れる。
萩城址は明治維新後率先して城を解体した跡でお堀と石垣の結構のみが残っている。
「今お城が残っていれば大変な観光資源なのに」と明治維新直後の萩人のお先走りを今の萩人は嘆くのである。]
松下村塾は幕末の先駆者吉田松陰先生(萩人は必ず先生と尊称する)が教えた私塾で、ごく短期間の経営にかかわらず多くの志士人材を輩出したことは良く知られている。わずか3間の平屋で、部屋からあぶれた弟子は軒下で講義を聞いたという。「学問は建物ではないよ」との声が聞こえそうである。
松陰は優秀な弟子、そうでもない弟子それぞれに個性に合わせた教育や訓戒をしたといわれている。事実塾生の中には土地の不良少年も何名かいた由で、彼等には論語や天下の情勢を説く変わりに更正指導をしたという。
松陰門下の最優秀グループは大半が維新動乱のなかで、その短い生涯を終えている。生き残り明治の元勲といわれた人達はどちらかといえば2番手グループとのことである。これも革命期の宿命の一つであろう。
笠山はその小ささで東洋一を誇る火山である。
火口も今のパワーシャベルで三日も掘り下げれば出来そうな穴である。頂上からは萩市街、日本海それに浮かぶ大小の島が一望である。
夕日も絶景と評判である。
一楽ニ萩三唐津と茶人に評価の高い萩焼きの窯元の一つを訪れる。この窯元は2百70年の歴史のある登り窯である。八代目の当主は留守との事で隠居した7代目の80余才の矍鑠お爺さんが不意の来訪にもかかわらず、萩焼きの歴史と窯の熱学を教えてくれた。最近放映されたNHKの萩焼きとそれにまつわる人間模様(題名:緋が走る)を描いたドラマのロケに使われたのがこの窯元だそうである。
ただし窯元の看板の上に別の「○○窯」と書いた紙を張って撮影したそうで、このくだりではお爺さんはチョッピリ残念そうであった。
肝心の美味の話は河豚(季節は過ぎているが特に生簀で生かしていた由)をはじめ新鮮な魚介類がドサッと出てきたというだけにとどめ、これ以上の説明は不要でしょう。