今が好き♪
2001.5.1
時そば」と言う、良く知られた落語がある。そば16文の支払いを1文ずつ数え、8つまでいったら「なん時だ?」、そば屋が「九つ」と答えて、以後10,11‥‥と続け、
1文ごまかす話。下げは、それを真似した男が四つ時に支払いをしてしまい、8つの次が「四つ」、以後5,6となって‥‥。落語では夜昼のどちらともことわっていないが、二八の16文そばは夜鷹そばともいわれていたので、話の九つは真夜中、四つはその一刻前の午後10時頃にあたり、夜食をとったと思われる。
この時代の1文、今のお金でどれぐらいの価値だろうか? 16文そばは、かけそばとのことだから、現在のそれを300~400円とすれば、1文は20~25円見当になる。
多少変動があっても落語の時代、江戸後期の物価の参考になる。
さて、江戸の貨幣制度は複雑だ。徳川幕府はそれまで、各地でばらばらだった通貨を統一する必要にせまられながらも妙案がなく、従来の貨幣形態をほぼそのまま踏襲して、「三貨制度」という基準を採用した。三貨とは、従来流通していた金貨・銀貨・銅貨の3種の貨幣を指す。金貨は両を基準単位とし、小判1枚が1両、1両は4分(ぶ)、1分は4朱(しゅ)と4進法で表わす計数貨幣で、大判・小判のほかに1分金、2朱金などの金貨がある。
銀貨は重さを基準とした秤量貨幣で、基本単位は重さそのものの匁(もんめ、3.75g)。
メートル法施行前に使われていた重さの単位、1貫目の1000分の1にあたる。後期には計数銀貨も発行されたが、当初、定額銀貨は無く、丁銀、豆板銀といった、大きさの違ういびつな形の銀貨が主に使用された。もともと重量が基準だったため、板でも玉でも塊でも銀であれば流通し、売買にははかりが必要であった。
銅貨は銭(ぜに)と呼ばれて、単位は文(もん)。銭1個が1文、1000文は1貫文(いっかんもん)である。主要貨幣は寛永通宝であったが、永楽通宝など中国宋、明からの輸入貨、中世からの私鋳貨など各地で使われていた雑多な銅貨もすべて1個1文で流通したらしい。
当然、三貨間の交換が必要となり、そのために両替商が生まれて銀行業のさきがけとなった。幕府の公定相場では金1両あたり銀貨50匁、銅貨4000文(4貫文)であったが、市中の交換レートは時期によって異なり、それぞれ65匁、6500文と言った相場幅で変動し、幕末になるにつれ金高相場となった。更に、米・材木・建築など高額な取引は金、交易・繊維など関西での取引は銀中心、日常生活品の購入は銅貨主体と言った具合で、買い物や支払いの性質によって使用する貨幣が違っていたと言うから大変だ。
三種の通貨の選択に交換相場、まるで円・ドル・マルクが一国内で流通しているといった状況だった。我々日本人が、おつりの暗算や為替計算が得意なのは、先祖ゆずりなのである。
前述の二八そばから、1両を現在の金額におきかえると、江戸後期の6500文換算で13万円から16万円となる。また、1石(150Kg)1両だった米相場からはコシヒカリ10Kg7000円として、10万5千円。他に、土木工事日当300文を1万円とすれば1両は21万円相当となり、基準にとるものの物価や時期で換算結果は大きく変ってしまう。従って、1両の価値についての定説はいまだもって存在しない。
私ごとになるが、大学を卒業した昭和40年頃、かけそばの値段が80円、これを16文として1文5円、公定相場換算の1両4000文とすると1両はジャスト2万円であった。これが当時の私の初任給にぴったりであったのになぜか感激。以来、1両は大卒初任給に相当するとかたくなに信じてきた。大卒初任給20万円が現在の相場らしいから、今でも、あながち的外れではなさそうである。定説として認知されるだろうか。